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【レビュー】ドライビング Miss デイジー(ネタバレあり)

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交通機関が発達したとはいえ、未だ車の需要が高い今日この頃。郊外に暮らしていればなおの事、必要となります。
そんな環境下、デイジーの壊滅的な運転技術がきっかけで起きる運命の出会いを描いたのが、今回レビューする『ドライビング Miss デイジー』です。

 

別段、盛り上がるシーンや映画史に残るような名言があるわけでもない本作。
けれど、デイジーとその運転手ホークのしっとりとした関係はただただ「素晴らしい」の一言でした。
そんな素晴らしいと呼べる二人の関係ではありますが、最初から良好というわけではありませんでした。
というのも、デイジーが頑固なんですね。
ホークを雇えば文句をいい、していた仕事をしなくていいといい、車を出そうとすれば乗ろうとしない、そんなテコでも動かない絵に描いたような頑固一徹っぷりは清々しいくらいでした。
その凝り固まった心をホークがほぐしていく様子は、見ていても気持ちのよいものがありました。
その気持ちよさは、デイジーを「ぎゃふん」と言わせる痛快さではなく、彼女に寄り添うことで生まれる温かさであったのが良かったです。

 

そんな彼女らの出会いのきっかけとなるのが、タイトルにも入っている「運転」です。
初めの内は、運転のヘタクソなデイジーにホークが運転を教えたりもするのかと思っていましたが、そんなことは一切ありませんでした。
しかしデイジーからすれば、行き先を決め、運転にあれこれ口出しをする=私が運転している、とのこと。
そのブレないプライドの高さは、ある意味微笑ましかったです。
しかし、タイトルにもなっている『ドライビング Miss デイジー』(原題『Driving Miss Daisy』)には、「ミス・デイジーを車に乗せる」や「ミス・デイジーを活発に行動させる」といった意味合いがあります。
これを見ると分かるように本作のタイトルはホークの目線から付けられているんですね。
全てのことを「運転」しているつもりでいたデイジー。実際は「運転」していたのか、それともホークに「乗せられていた」のか……?
作中のホークの言動を見ていればそれは明らかでしたね。

 

ここまででも書いたように、デイジーはとてもクセの強い性格をしています。
「黒人差別はしない」と言いつつ、ナチュラルに差別的な対応をしてしまったりと、彼女の自己評価と比べると不完全な部分が多いんですね。
ただ、それが彼女を嫌うべきキャラに変えていたかというとそうではありませんでした。
というのも、彼女自身ユダヤ人であることから、周りに打ち解けることができず劣等感を抱いています。
そうした劣等感が彼女のより高貴であろうとする感情を生み出し、それが偏屈で融通の利かない性格に繋がっていました。
その彼女の背景を考えると、嫌う事なんてできるハズがありません。
むしろ、その不完全さにこそ人間味があって、愛すべきキャラクターになっていたように思えます。
ただし、そうして彼女の不完全さを容認できたのはホークの寛容さがあっての事でした。
彼のユーモラスな性格と、悪態を吐かれても動じないポジティブな性格。それらの寛容さは、見ている私たちにさえ広い心を持たせてくれました。


ホークという魅力的なキャラによる引き立てがあったからこそデイジーのキツイ性格もまた、笑って見ていられる魅力的なキャラに仕上がっていたのだと思います。
どちらが欠けても物足りなかったであろう絶妙なバランスは、まさにベストコンビと呼ぶしかないでしょう。
デイジーを演じたジェシカ・タンディとホークを演じたモーガン・フリーマンの完璧ともいえる演技もキャラクターの魅力を高めていました。
ヒューマンドラマだけに、彼らの演技力の高さがそのまま、作品の高いクオリティに反映されていたと言えるでしょう。

 

デイジーの「運転が出来ない」という弱点がきっかけで物語が始まる本作。
ただ、ホークと出会い、運転手と主の関係を超えて生涯関係を維持し続けられたことを考えると、あながち悪い事ではなかったのだと思えましたね。