【ネタバレあり・レビュー】羅生門(1950) | 人間の本質を露にする黒澤明の傑作!
芥川龍之介の著作「羅生門」といえば、たいていの人が知っている小説でしょう。
重苦しいながらも教訓のある内容は、小学校の教科書などにも乗せられています。
そんな名作小説を名匠黒澤明が映画化したのが、今回レビューする『羅生門(1950)』です。
ストーリー
平安時代の京の都。羅生門で杣(そま)売りと旅法師が雨宿りをしているところへ、一人の下人が駆け込んできた。
杣(そま)売りと旅法師は、羅生門へ来る前、ある事件に関わったが、その真相に納得がいっていなかった。
興味を持った下人はその詳細を話すよう杣(そま)売りに促す。
杣売りは、ある山中で起きた、殺された武士とその妻・真砂、悪名高い多襄丸の三人の物語を語り始める。
感想
芥川龍之介の「羅生門」は、小学生の頃に読みました。短編ながらも、老婆が死体から髪の毛を抜くという行為と、それを見た武士が老婆から身ぐるみを剥がすという、おどろおどろしい展開は、今でも記憶に残っています。
そんな作品をどのように(尺も含めて)映像化したのかと思いつつ鑑賞したわけですが、ストーリー全般はごっそりと変えていました。
一人の武士の死を巡り、彼を殺した(とされている)多襄丸の証言、多襄丸に手籠めにされた武士の妻・真砂の証言、霊となって現れた武士・金沢の証言、この3人の異なる証言から、人間が自身の都合の良いことしか語らない身勝手さを説いていたんですね。
面白いのが、この3人の証言シーン(回想シーン)をすごく詳細に描いていることでした。
そのため、多襄丸の証言では金沢と切り結び激闘の末、金沢を殺したシーンを、真砂の証言では手込めにされた彼女を蔑む金沢が殺されるシーンを、金沢の証言では無念の末に自決するシーンを、事細かに再現しているんですね。
ここで、凄かったのが演出でした。
だいたいどの証言でも命の取り合いに発展するのですが、その間の取り方が絶妙。
まるで、西部劇でも見ているかのような緊迫した空気は、そのまま作品への没入感となっていました。
やたらセリフを入れたりせず、映像だけで説明するのも演出の妙だと言えるでしょう。
こうして、人間の証言が身勝手さによっていかようにも変わることを前半部では描いていました。
一方で、原作にある人間の欲深さや、悪に流される脆さといった、人間の本質を捉えた内容も抑えていたのが本作のすごいところ。
そのキーパーソンとなるのが、羅生門にいる3人の男たちです。
彼らは話を通して、人が信用ならないということを痛感。時、同じくして羅生門にいる赤ん坊を見つけます。
下人は、その赤ん坊から毛布がわりにしてあった着物を盗むわけなのですが、杣売りはそれを非難。
けれど、杣売りも自身の都合で武士殺しの真相を隠していたんですね。
この、まったく関係のない武士殺しの話が雨宿りをしていた3人の立場に当てはまるというのが素晴らしかったです。
人間誰しも汚い面を持っているのか、と法師と同じように疑心暗鬼になりましたから。
そうした、訴えかけてくるようなリアリティを持たせるのが、前半部分の武士殺し事件だったのだと思います。
とはいえ、原作のような救いのない話にしなかったのが、本作を見ていて印象的でした。
杣売りが赤ん坊を引き取り、法師もそれを信用する雨上がりのシーンの爽やかさは、原作の誰も報われない陰鬱としたラストと比べると見終えた後のスッキリ感がまったく違いました。(原作も考えさせられるという点では素晴らしいものです)
人間の本質が自己中心的であると同時に、いざという時には優しさも持ち合わせているのだと思うことができる素敵な作品であったと言えるでしょう。
黒澤明監督の作品群の中でも5本の指には入るであろう名作である本作。
原作の雰囲気を踏襲しながらも、オリジナルのストーリーを作り上げており、高く評価されるのも納得でした。
作品が作られてから70年。『羅生門』の映画が新たに作られないのは本作の完璧すぎる出来があるからなのかもしれませんね。