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【レビュー】ランボー ラスト・ブラッド(ネタバレあり)

ランボーといえば、日本でも有名なキャラクターです。

おそらく映画を見たことがない人でも知っている人がいるほどでしょう。

1982年から始まり現代まで続いたのもランボーが愛されるキャラクターであったからだと言えます。

その最終作となるのが、今回レビューする『ランボー ラスト・ブラッド』です。


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ストーリー

アメリアリゾナ州ボウイでランボーは、旧友マリアとその孫娘ガヴリエラと共に暮らしていた。

ある日、ガヴリエラがメキシコに暮らす父親の所在を突き止める。

ランボーらがの制止も空しく彼女は単身メキシコへ向かってしまう。

まもなく、ランボーは彼女がメキシコへ向かっていたことを知るものの、その時にはすでに彼女は行方不明となっていた。

 

本作、まず耳にしていたのが「賛否両論な作品である」というこでした。

ランボーシリーズといえば半アクション映画。

「賛否両論ってどういうこと?」と思いつつ見ましたが、なるほど賛否両論になるわけです。

なんといっても救いが無さすぎるんですね。

あらすじを見てもらえば分かるように、本作はメキシコで誘拐されたガヴリエラをランボーが助けに行くストーリーです。(きっかけとなるガヴリエラの父親は事件に一切関係していなかったのは地味に驚きでした)

で、ランボーの努力空しくガヴリエラは命を落としてしまいます。

もちろん、悪党は全員殺して決着はつくのですが、ラストシーンはランボーは孤独になるんですね。

これ、とても酷い終わり方に見えますよね。

シリーズ初見なら投げやりなエンドにしか見えないでしょう。

往年のシリーズを追っていても『ランボー/最後の戦場』(前作に当たる4作目)の帰郷したラストをぶち壊しにしてしまう蛇足のように感じられます。

しかし、本シリーズにおいてこの終わり方こそ「ランボーらしさ」はあったのかもしれません。

というのも、このシリーズはどれもベトナムから戻ったランボーの苦悩を描いています。

そのため、ラストシーンは4作目を覗き、ランボーが戦争の虚無感にうちひしがれるか、あるいは自身の戦争が終わらないことを耐え忍ぶ結末を迎えるんですね。

そうして考えると、本作のラストシーンはランボーらしい結末だと言えます。

戦争に翻弄され、痛みと共に生きて行く。

ランボーに課せられる皮肉な結末はシリーズの意図を汲んでいたと言ってもいいでしょう。

 

本作がこれまでのシリーズと異なっていたのが動機とシチュエーションです。

これまでランボーは、以下のような動機とシチュエーションで戦って来ました。

 

1→帰還兵への不条理な扱いに耐えられずアメリカの片田舎で戦争

2→ベトナム戦争時の捕虜を救うためベトナムの地で戦争

3→トラウトマン大佐を救うためアフガンで戦争(相手はソ連

4→捕虜となったアメリカ人ボランティアを救うためミャンマーで戦争

 

今作でも「ガヴリエラを救うため」と言う動機は同じですが、先にも書いたようにそれは失敗して死へ、戦争もランボーのホームで行うという、これまでにない展開が待っていました。

これはなかなかに新鮮な感覚でした。

ガヴリエラのことを父親のように心配していたり、それを救出するための力が及ばなかったりと「ランボーが変わってしまった……」という印象がありました。

しかし、作中ランボーが言っていたのが「自分自身に蓋をしているだけだ」と、自身が変わっていないということでした。

で、これが証明されるのが終盤のメキシコカルテルを一斉に抹殺するシーンです。

一切容赦なしのこの殺りくとも呼べるシーンは、本当によくできていました。

ランボーの怒りを表すかのごとくのグロテスクさ、「ゲリラ戦最強」と言われていたゆえんでもあるトラップの数々。

これを見て「彼が変わったか?」って聞かれたら「変わランボー……」と答えるしかありませんよ。

後々になって気づきましたが、ランボーの晩年期を描きつつ、シルヴェスタ・スタローンに無理をさせない、でもカッコよく見せるを実現していたのは素晴らしいことだったと思います。

彼に酷な結末を迎えさせてはいましたが、そこに「ランボー愛」は存在していたと断言出来るでしょう。

 

冒頭にも書いたように賛否両論評価が分かれている本作。

けれど、賛否どちらの言い分も「ランボー愛」があるからこそ。

どんな結末を迎えようとも、今後もランボーが愛されることに変わりはないのでしょう。