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【レビュー・考察】レ・ミゼラブル(2019)(ネタバレあり)

レ・ミゼラブル」といえば、ヴィクトル・ユゴー著の小説をイメージします。 これまで、ドラマやミュージカル、様々な形で映像化されており、日本でも知らない人の方が少ないくらいでしょう。 そんな超有名作のテーマだけを引き継ぎ、現代ベースに落とし込んだ作品が、今回レビューする『レ・ミゼラブル』です。

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【感想】「悪い草も悪い人間もいない」物語

「現代ベースに落とし込んだ―――」と書いたように、本作は完全オリジナルです。 ジャンバル・ジャンも出なければジャベールも出ません。 ではなぜ「レ・ミゼラブル」を名乗っているかというと、このタイトルは日本語訳で「哀れな人々」という意味があるからです。 もう一つ理由を追加するなら、本作の舞台となっているフランスのパリ・モンフェルメイユが「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・ユゴー著)の聖地であるから。 作品を見てもらうと分かるかと思いますが、このモンフェルメイユは、低所得者層や移民が多い地域でもあります。 こうした事情は、見る前に知っておきたいですね。(自分は手遅れでした)

さて本作ですが、犯罪防止班(BAC)3人の視点からモンフェルメイユのヤバさを映し出す作品でした。 こうして見るとBACの3人の奮闘記のように見えますが、本作には無法者しかいません。 BACの三人が、サーカスの子ライオンを盗んだ少年を追う内、大ケガを負わせてしまいそれを隠ぺいしようとするわけですからね。ロクな警察ではありません。 そんな中でも、かろうじてポマードことステファンはまともではありますが、それでも要領がいいわけでもヒーロー気質でもなく、感情移入できる人物ではありませんでした。 それもそのハズで、本作は半ドキュメンタリーチックなんですね。ヒーロー役なんて不要なわけです。 治安の悪い街を登場人物たちの後ろから追いかけているかのような感覚は、『エンド・オブ・ウォッチ』を思い起こさせました。(あちらの作品はPOVに近いものがありましたが) そのため、私は登場人物の誰かに肩入れしたくなるというよりも、傍観者として事件を観察している気分でした。

とはいえ、そうした方がモンフェルメイユという街の闇の深さが感じられるのは確かでした。 ステファンを除くBACの警官2人(横暴な性格のクリスと誤射をしてしまうグワダ)は、モンフェルメイユ=自分の街という信念の下、住人に対して恫喝にも近い態度で接していました。 しかし、それは街の問題児らに舐められまいとするために取った自己防衛にも近い接し方だったわけです。 対してモンフェルメイユの人々は、そんな態度の警察に怒りを募らせ反抗的な態度を取っていました。 つまり、お互いに「舐められてたまるか!」と、威嚇し合う負のスパイラルが出来ていたわけなんですね。 これがもし、子供同士の喧嘩なら「なにやってるんだ……」と呆れる程度ですが、本作では街vs警察。シャレになりません。 本編中、そのフラストレーションが至る所で溜まっていくのが分かるのは、胃が痛くなる思いでした。 というか、モンフェルメイユにいる人々の演技がマジの怒りを溜めた住人っぽくて怖かったです。

そんなフラストレーションを爆発させたのは大人……ではなく、少年イッサでした。 確かに彼はBACに大ケガをさせられた恨みはありましたが、おそろしいのはその豹変っぷりです。 それまでは子供のあどけなさがあり、クリスに脅されれば怯えた表情も見せるような「無邪気な問題児」程度の少年でした。 しかし、復讐をしにきたイッサの顔は、人でも平気で殺しそうな無機質さをまとっていました。 そうなったのは、BAC(主にクリスとグワダ)の身勝手さによるものであったのは一目瞭然。イッサが引き連れていたマスクを被った少年らも彼らの被害者でしょう。 皮肉なのは「恫喝し、力で支配すれば相手は服従する」というのを少年らは学び、実行したということです。 さらには、イッサがBAC3人を生かすことも殺すこともできる状況に立っていたり、ドローンで事件を目撃していたバズの行動ひとつで3人の命を救える状況に立っていたりと、力を持っていなかった者がカギを握るラストシーンは、その緊迫感にただただ圧倒されました。 結果的に、ヴィクトル・ユゴーの著作「レ・ミゼラブル」から引用されていた「よくおぼえておきなさい、世の中には悪い草も悪い人間もいない。ただ育てる者が悪いだけなんだ」というのが本作のすべてを物語っていたと言えます。 そうして見ると、タイトルは『レ・ミゼラブル』意外には考えられませんね。

ドローンやSNSなど、文明の利器が活用されていたのが印象的であった本作。 しかし、どれだけ技術が発達しようと人が変わらなければ何も変わらないのは明白でしょう。 傍観者であることもまた当事者なのだと、考えさせられる作品でした。

【調査】2005年の失敗とは何か?

作中、ステファンがドローンの映像を取り戻すための交渉中「2005年の失敗を繰り返す気か?」と、言っていました。 では、2005年に何があったのかというと「2005年パリ郊外暴動事件」でした。 これは、モンフェルメイユの同県内に位置する、セーヌ=サン=ドニ県クリシー=ス=ボワで起きたとある強盗事件が引き金となっています。 強盗事件を捜査していた警察官が北アフリカ出身の若者3人を追跡した所、彼らは変電所へ侵入。そこで、2人が感電死、1人が重傷をおったというものでした。 それがきっかけとなり、セーヌ=サン=ドニ県(モンフェルメイユ含む)を初めとしたフランス全土を巻き込む大きな暴動となりました。(被害地域については、下記の画像を参照) 暴動は3週間近く続き、逮捕者は3000人前後、警察の負傷者は200人前後に上ったそうです。 もちろん、暴動によって何かが変わったかと言えば、作品での移民たちの扱いを見れば分かるかと思います。 ただ逮捕者と怪我人を出しただけの暴動は「失敗」と呼ばれるのも無理はありません。 ステファンとしては、それを再び起こさせないためにもBACの不正に付き合う必要があったわけなんですね。

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【考察】モンフェルメイユの結末は?

本作で最も気になるのがラストシーンですよね。 火炎瓶を投げようとするイッサ、それを止めようとするステファン、その様子を見守るバズ。 当事者の集まった一触即発の状況は、モンフェルメイユの街そのものを表しているかのようでした。 で、問題となるのがイッサは火炎瓶を投げたかどうかです。 個人的な考えとしては、投げなかったと思います。 理由としては、2つ。 1つ目は、彼がBACから学びを得ていたからです。 イッサの起こした小さな暴動は、BAC(主にステファン)の横暴な行動を見ていたからでした。 それは逆に言うと「力で恫喝すれば人は服従させられる」より上の行為(つまりは殺人)がもたらす影響というのは知らないわけです。 「悪い草は、悪い人間が育てる」 『レ・ミゼラブル』でのこの言葉に依存するのならイッサが火炎瓶を投げるというのは低いと言えるでしょう。 2つ目の理由は、映画のテーマとして破綻してしまうからです。 本作は、ステファンの行動からも分かるように、互いに歩み寄ることの重要性を説いています。 力でどちらかが押さえつけるのではなく、言葉を交わしより良い妥協点を見つけること。それをステファンの正義感として描いていました。 それを全編通して描いてきたにも関わらず、最後にイッサが歩み寄ることを拒めば、それは本作全てを否定することとなってしまいます。 そうして見てみると、ステファンはもちろん、スタッフ、観客、全員がイッサの歩み寄ることを期待しているとも言えるのでしょう。

全ての答えは、制作したスタッフらしか知り得ません。 しかし、おそらく彼らも結末は現実の人々が出すものとしていると思います。 この先、この映画を見た人々の移民たちとの関わり方がどう変化していくのか、それこそが本作の結末なのでしょう。