【レビュー】美女と野獣(1946)(ネタバレあり)
「『美女と野獣』といえばディズニー」
そんな印象が強いです。
けれど、原作は1740年にガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴが書いた小説で、ディズニーが映画を作ったのは1991年のことでした。(アニメーション版)
もちろん、それだけの間に映画化されていない訳もなく、むしろ実写化が初めに行われていました。
そんな走りとなったのが、今回レビューする『美女と野獣(1946)』です。
ストーリー
意地悪な二人の姉と、兄と共に暮らすベルは、兄の友人アヴナンから求婚を迫られていたが、父の側にいてやりたいという思いからそれを断っていた。ある日、ベルの父は出かける際にベルにバラを土産として持ち帰る約束をする。
ベルの父はその道中、道に迷いある館にたどり着いた。
そこでバラをつんだことから館の主である野獣から処刑を言い渡される。
野獣はベルの父に、助かりたくば娘を差し出すことを要求する。
感想
1946年という第二次世界大戦直後に作られた本作。当然、フランスにもその火の粉は降りかかっており、そんな荒んだ心を癒すためにもファンタジー×ラブロマンスを作ったのかなと思ったり。
ともあれ、ジャン・コクトーの「子供心に帰って見てね」というメッセージの通り、童心を思い出しつつ見てみました。
うん、怖い!
子供が見たら絶対に泣き出しそうな世界観は、ディズニー映画では絶対に見られないような独創的なものでした。
野獣の館の壁から生えた人の手がロウソクを持っていたり、置物が人間でベルを見つめていたりするのですからもはや恐怖でしかありません。
そんな迷宮にでも迷いこんでしまったかのような感覚は、ある意味ファンタジーらしいと言えるのかも知れないです。
また、ベルや野獣たちが館を歩くシーンはやたら長回しのショットが多く、より世界観に深く入り込めるようになっていたのも印象的。
独創的で不安を煽るような世界観ではあるものの、目が離せなくなる不思議な空間は、芸術家でもあるジャン・コクトーならではの表現であったと思います。
そんな世界観を表現するのに一番大事であったのが野獣の見た目でした。
正直、時代が時代だけにクオリティはそこそこなわけなのですが、その粗がいい感じにヤサグレた雰囲気を醸し出しているんですよね。
常に何か悲しそうな顔をしている(ように見える)のは、野獣をただの恐怖の対象としてではなく哀れむべき存在として認識させていました。
そんな野獣とベルの恋路がメインストリー。
けれど、これはほとんど私たちがよくしる『美女と野獣』でした。
父親のためにベルが野獣と出会い、共に過ごすことで好意を抱いていく流れです。
大きく違いがあるとすれば2点。
まず、ダンスシーンは存在しないこと。
たしかにベルと野獣は少しずつ距離を縮めて行くのですが、初対面の時にベルが「貴方みたいな醜い人と結婚なんてできません」と辛辣なことを言うくらい二人の溝は深く、作中で一緒にダンスを踊るほど親密にはなっていないんですね。
終盤に向けて、だんだんと確執は取れていましたが、恋愛関係まで発展するのがギリギリなレベルであるというのは目新しかったです。
もう一点、違いがあったのがラストシーン。
これが本当によく分からないもので、野獣の館にある宝を盗みに入ったアヴナン(ベルに恋をしていた男)が女神の銅像の矢に射ぬかれると、アヴナンは野獣に、野獣は元の姿(アーデント王子)に戻るという謎の展開を見せていました。
(調べてみるとどうやら矢を打ったローマの女神ディアーナの力でそうなったのだそう)
さらに、アーデント王子が野獣になっていた理由が「両親が精霊を信じなかったから」
え?それだけで?
原作準拠なのかは分かりませんが、とんでもないとばっちりで野獣は生まれていたようでした。
まあ、結局の所は野獣がもとに戻ってベルといい雰囲気になっていたのでめでたしめでたしなのでしょう。
今となっては子供向けの作品として認識されている『美女と野獣』
しかし、その元祖とも呼べる本作は、冒頭の「子供心に帰って」というメッセージからも分かるように大人向けに作られていました。
とはいえ、ディズニー版とは違った刺激があって見ごたえのある作品だったと思います。